鋭く斬る
Unixの哲学の話は20:00にアップしますが、今書いている「無駄を省く」という事について居合道の中で学んだ事について少し記事に書いてみます。
実際に刀で仮標(水に浸けた畳表を巻いたもの)を斬る時に僕が師範からよくに受ける指摘の中に「迷い」や「考える」と言う言葉が出てきます。
実際に肝心な所で二の足を踏んで考えてしまっているので、対象を一刀両断に出来ておらず不完全に斬っている状況になりがちです。
斬っている状況はある程度見えているので迷いが原因で有る事は理解は出来るのですが中々こういったものは治す事が難しい部分でもあります。
まぁ、理解して出来れば苦労はしないですから、この辺りは鍛錬して何とかしていくとして、無駄を省くというのはこういった所から実体験で学んでいます。
物体を斬るというのは多くは論理で片付きます。
要は斬れる様に斬れば良いというだけの事。
物体の繊維に沿ってその繊維が分断出来るように加重がかかりさえすれば両断する事が出来るのですね。
ただ、頭で理解する事と身体で実践する事では大きな違いがあり。
ここに実践による学びが生まれます。
鋭く斬るというのは、その斬る直前から自分が空っぽになっている状態で、後は身体に任せてしまう位の感覚になっていないと僕の場合中々上手くいきません。
空っぽの状態であれば、変に迷ったりせずスパッと斬る事が出来るのでどうにかこの心境を何時でも持てるようにしていくよう鍛錬しています。
感覚としては座禅している状況と変わらないのですが、どうも環境が変わってしまうとその心境を保つ事が出来なくなるようです。
いつも行っている鍛錬は状況に流されないようにするための最小の心境を保てるようにしていくものだったりします。
しかし記事を書いて改めて感じますが、道を実のある言葉にするのは難しいなと感じます。
まだまだ修行しないと全然追いつかないですね。
今回はここまでです。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。