斬る心

居合道を通じて学んだ事を日々実践し時代の変化によって色褪せない技術を磨くI.T.系技術屋の記録

固執

本日の稽古は自身にの心の内について考えさせられた内容である。

己と我、自身が護っているのは我欲なのだなと感じました。

簡単に説明すれば、宴会の席でその場の流れでゲームし、その結果私は救急車のお世話に
なったのだが、自身が率先してやったのならまだしも巻き込まれた側なので謝る事など
考えもしなかった。

私はこの件について自分の中で一切考える事を止めた。


だが、師範からこの件について「お前ちゃんと謝ったか?」と指摘され、一瞬なんで
私が謝るのかわからずキョトンとしてしまった。
続けて「誰が良い悪いとかは別にして、迷惑はかけたのだから謝りなさい」という
事だったので、「そうか」と思い謝った。


今回、迷惑をかけたから謝るという単純な事に失念し物事の善し悪しにばかり
想いがいってしまい、私は周りの人の事を考えもしなかった。

しかし、謝った後も感情と理性がそれを許さない、感情は自分がどれだけ守って
ほしいかを訴え続け理性がその正当性を立証しようとする。

そういった頭で訴えかけている言葉に対して「そうか」と心が応え、この件を己の中で
決着としました。


今回の件で、私が固執しているものが明確に観る事ができ見失っていた物を見詰める事が
出来たきっかけとなりました。


頭ではわかっているのですが個人が持つ正否の判断なんて他人によっては変化します。
そんな変化し続けるものに対して固執するのは本来の在りたい己から離れます。

私という我は自分を守って欲しかったり甘やかして欲しかったり誰かに認められたり
慰めて欲しいという欲が常に出ています。
その欲求を後押しする為の感情と理性が頭の中に居るみたいです。


ただ、己の心は思いのほか穏やかで上記にそういった欲に対して「そうか」と受け流し、
必要に応じて働きます。

今回の場合は「先日はご迷惑おかけしました。」といった感じです。

今回の件で学んだ事は感情や理性を超えたところに心というモノがある、その心に対して
己と体を一致させる事が今後の鍛錬の課題だと考えています。


余談ですが、謝るという言葉、「言う」に「射つ」という言葉が組合わさっている事に
今更気づきました。

感謝の言葉も謝罪の言葉も其処で事を一旦水に流す為に使うのでしょう。

そう考えると本来この言葉を使う事は刀と同様、後にも先にも澱みを残す事さないために、使う事が必要なのだと感じます。