斬る心

居合道を通じて学んだ事を日々実践し時代の変化によって色褪せない技術を磨くI.T.系技術屋の記録

学ぶ事

普段の社会生活だと、上司や客先の方にあーだこーだ言われてそれが間違っていていも堪える必要がある事は少なくはないと思う。

何かを進める為に面倒でもルールを決めてやっていくのはそれほど悪くない方法だと思う。

そうでないと、誰に何をお願いするか有耶無耶になる現場もありますから、ある程度は仕方ないと感じる。

ただ、そのルールに縛られて肝心な所が疎かになるのであればどうなんだろうと最近考える事が多くなりました。

ここで、僕が通っている道場稽古を例に僕なりの学びについて書いていきたいと思います。

道場稽古について

$日本の伝統文化『刀』を学び得たもの実践し生活の一部としているI.T.剣士のブログ-刀


僕が通っている道場では入りたて時期は、摸擬刀を持つ事になり最初は座礼や立礼から刀の持ち方や振り方、納め方を習います。

礼法については稽古の時間は普段の出し切れていない自分の力を全力で出すための儀礼みたいななものです。
その間は普段の社会生活を一旦洗い流して、ただその場の自分の全力を出す。
そういったイメージですね。
近い所で食事の「いただきます」「ごちそうさま」をする気持ちに近いと感じます。


あと、基礎的な所を教えたあとは出来るだけ自分で考えて稽古をするように行われています。

最初の方に書いた礼法は、日常と道場の区切りをつける事

あと、刀の持ち方、振り方、納め方は実際に真剣を持った時に怪我をしないようにするためという所が重要な所ですね。

実際、真剣がどれほど人体を斬るのに適しているか斬れた所を見た人しか分からないですからね。

扱いを間違えればあっさり指程度であれば落ちます。

これは納刀は時におきやすい怪我です。
行動を発するより納める時の方が人は油断し易いようです。

そうならない為に、最初はきちんと教えるのですね。

基礎的なところを教えたあとは、個人で鏡前で刀を振り稽古をしています。

基本的に一から十まで伝える事はしていません。

そうしてしまうと、折角の学ぶ機会を奪ってしまう事に繋がるからだと思います。

最初のとっかかりさえ伝えてしまえば、本来人は動けるものです。
1から10まで一々教えていては何れその方は考える事を放棄してしまうでしょう。

それに、その人の体格や筋力によって微妙に癖が変わります。
そのため、必ずしも先輩が言った事「正しい」とは限らないのですね。

本来「学ぶ」という言葉は「真似る」事から始める事でもあります。

そのため、人から受けた情報を自分なりに咀嚼し実践する、その経験自体を「学び」という言葉に繋がっていくのですね。

こういった感覚を養うように毎日生活していきたいものです。

今回はここまでです。

最後までよんでいただいてありがとうございました。