斬る心

居合道を通じて学んだ事を日々実践し時代の変化によって色褪せない技術を磨くI.T.系技術屋の記録

仏陀の教えを読んで

私が通っている道場では、たまに師範からお題が出される事があります。
今回は、一個人の3月号から感じとった事を書けという事でしたので私は「仏陀の教え入門」より感じたことを書きます。

まず読んで感じたことですが、”苦”の扱いと”思い”に対して絶妙な間をとっているように感じました。

上手くいかない事時もそうですが、上手くいっている時もそこに引きずられるとバランスを欠いてしまうのだなと思います。

こうやって文章を書いている間でも、書きながらああでもないこうでもないと思い悩んでいる自分があり、思い返すと刀を振っている時とあまり大差が無いのだなと感じます。

理想の自分象というのがある為、その思いに右往左往している自分を感じますが所詮理想像なので切り捨ててしまえばいいのだなと感じています。

身近で最近感じている事は、今までは契約事だから当たり前というふうに自身の中で処理していたものが、今は「そこは人としてどうなの?」という疑問が湧くようになりました。

東京に住まいを変えてから特に感じるようになり、土地柄か人口が他県より多いから効率化のために簡素化させるのは理解は出来るます。

金銭が関わると契約や書面でなんとか事を収めようとし、社会を便利にするお金が逆に人を苦しめている現状を考えると何だか現代が歪に感じます。

そういった疑問を持っている時に読んだので全体を読んだ時の感想は「そうなんだよね」という気持ちがあり、結局自身の理想像を押し付けているだけなんだなと感じます。

ただ、便利で手間がかからないということは”良い”事だと思っていたのですが、何事も度を超えていると違和感を感じます。

お金の関わらない人間関係というのが気軽なのでしょうが、それはそれで問題は有りますし、あまり細かい事を気にしないでその場その場で必要な事をやり切る事が良いように感じます。


イラついた時は、自分に対して「茶でも呑んで落ち着きなさい」と心の中で返して、一服するとすっかり忘れているという感じになっています。

心が揺れ動いたときは、その事柄とは距離を置くように出来れば苦しまないで住むと思うのですが、何だか現在は適度な距離感が見難く感じます。

人と人が自然と結びつける自然な状態にするにはどう動けばいいか、どのように働くか考えてます。

一個人 (いっこじん) 2011年 03月号 [雑誌]

一個人 (いっこじん) 2011年 03月号 [雑誌]